「上杉家军役帐」は天正3年顷の上杉氏家臣団の构成を知る上で重要な史料です。その构成は、家格别に、一家?一门?国衆?旗本の顺に记载されています。「御中城様」とは、景胜のことですが、のちに家督を争った上杉景虎が记载されていないことから、両者の政治的立场を考える上でも欠かせない史料といえます。
天正三年上杉家军役帐より抜粋したものだが、意外に少ない、というのが印象だろう。しかし「麾下八千人」といわれ、谦信自らも「精鋭八千があればいかなる敌もなし」と言うくらいであるから、この数字はほぼそれを里付ける资料でもある。もっとも、ここに记された武将は越後在国中の三十九名にかぎられ、中でも谋反の真っ最中であった本庄繁长、越中在国の河田长亲、上野在国の北条高広などがぬけている。その证拠にわずか二年後の天正五年の动员名簿には八十一名の武将が名を连ねている。留守部队を并せれば、ほぼ二万以上を动员できたのではなかろうか。
内訳
一门?客将
一门笔头は谦信没後、家督を継いだ景胜。山浦は村上义清の子。上条は能登畠山氏の一族である。同じ养子で上杉景虎の名前がないのが不思议。军役を课すつもりがなかったのか、それとも後継と见なし、谦信の直属となっていたのか。
武将名鑓手明ほか鉄炮ほか大小旗骑马合计
上杉景胜25040202540375
山浦国清17020201520250
上杉景信541045881
上条政繁6315261096
琵琶岛弥七郎10615101015156
山本寺定长501023671
计6931106364991029
谱代?旗本
军役帐中、最大の军役を担う山吉豊守は谦信の信任厚い秘书官。本庄秀纲は谦信初阵时の功臣実乃の子である。また、长尾景直は谦信の従兄弟にあたるという。吉江?河田らは谦信が上洛した际、取りたてられた者たちである。
武将名鑓手明ほか鉄炮ほか大小旗骑马合计
松本鹤松811510810124
松本同心20-35634
本庄秀纲15030151530240
吉江佐渡守501045776
吉江同心26-11129
山吉豊守23540203052377
直江実纲20030202035305
吉江资坚601551015105
香取弥平太90155715132
河田吉久60205715107
北条高定60207711105
小国刑部8015101010125
长尾景直5015331081
计11622251081282171840
国人衆
最初の中条以下十二名は、俗に「扬北衆」と呼ばれた自立性が强く、精强无比の国人たち。斎藤朝信?千坂景亲らはもともと越後守护上杉家の家老で、谦信の长尾家とは同格であった。
武将名鑓手明ほか鉄炮ほか大小旗骑马合计
中条景泰8020101515140
黒川清実9815101015148
黒川同心27-11231
色部顕长16020121520227
水原隆家581056887
竹俣庆纲6710561098
新発田长敦13520101217194
五十公野信宗801510811124
加地彦次郎10815101015158
安田新太郎9020101315148
下条采女正321023552
荒川弥次郎321023552
菅名与三451055873
菅名同心2-1115
平贺左京亮541045881
平贺同心8-33317
新津大膳亮541045881
新津同心4-22210
斎藤朝信15320101218213
千坂景亲361024658
柿崎晴家18030151520260
新保孙六401523767
竹俣小太郎461035670
山岸隼人佐301023550
安田顕元6015551095
舟见宫内少辅70105610101
计17493151501762502640
鑓手明ほか鉄炮ほか大小旗骑马合计
3604丁650人316丁368本566骑5509人
由于担心上面的排版不一定能看到,万一数据挤在一起效果可能不好,正好我这里还有另一个版本的军役帐,基本是大同小异,也都是从霓虹扒下来的一手数据,我用纯手打排了一个简单的格式。
《上杉御军役帐》
氏名…………………………军役数
一门众、客将:
御中将样(上杉景胜)……375
山浦样(村上国清)………250
十郎殿(上杉景信)………81
上条殿(上条政繁)………96
弥七郎殿(琵琶岛弥七郎)156
山本寺殿(山本寺定长)…71
国人众(扬北众、下越):